恋をはじめるいくつかの方法

  彼の部屋とワイシャツと私




 目が覚めた瞬間、ゲンコツで殴られたような痛みが頭に走った。
「うう……頭が痛いよぉ……」
 右手で頭を押さえつつ、あたし───三崎唯(みさき・ゆい)は身体を起こす。
 知らない部屋。ええと……ここ、どこ?
 あたしはぐるりと回りを見回す。そして、気づいた。
「ってあたし、なんでこんなカッコしてるのよっ」
 思わず大声が出るくらい、あたしは驚いた。なんであたし、男物のワイシャツ着てるの?
「……あたたた」
 思い出したように走る頭痛。うーん……完全に二日酔いだわ。
「……おう、起きたのか」
 聞き覚えのある低い声と共に、部屋の向こうからカズが顔を覗かせた。
 カズの本名は間柴和俊(ましば・かずとし)。同じ学年でサークルの仲間。
 ……って、ことはここはカズの部屋?
「ねえちょっと、なんであたしがこんなところで、こんなカッコで寝てるわけ? ……いたた」
「……あのな、三崎」
 カズは部屋に入ってくると、視線を少し上に逸らしたまま言った。
「お前が、終電がないから泊めろって上がり込んできて、服が汚れるから着るもの貸せって俺のシャツ奪い取って、あとよろしくって勝手にベッドで寝やがったんだよ。おかげで俺は床で寝る羽目になったんだぞ」
 んー、そうだっけ?
 昨日はサークルの飲み会で……ちょっとむしゃくしゃしてて飲み過ぎたとは、思うけど……。
 痛む頭をフル回転して、昨日の記憶を探る。
 ……覚えてない。
 まったくもって記憶が抜けている。
「……ったく、どーせお前のことだから覚えてないんだろ」
「……う」
「ったく、記憶失うまで飲むなよな」
 やはり視線を逸らしたまま、カズは続ける。
「ちょっと。怒るならちゃんとあたし見て言いなさいよ」
 あたしが悪いんだとは思う。でも、態度が気に入らない。
 何であたしの方を見ないの? なんか陰口みたいでムカつく。
「カズってば!」
「……じゃあ、ちょっと前隠せ」
「え?」
 カズの言葉に、あたしはもう一度自分の姿を見渡した。ええと……。
 ボッ。
 そんな音が聞こえた気がした。あたしが身につけてるのはショーツとワイシャツだけ。そしてワイシャツは下半分しかボタンが留まっていない。大きく開いた胸元。それはそう、一言で言うなら、ギリギリ。
 全身の血が顔に集まってるかもしれない。それくらいに顔が熱かった。
「ちょ、なんでそれ、早く言いなさいよ!」
 あたしはとりあえず、両手で胸元を隠して後ろを向く。
「お前が言う隙をくれなかったんだろうが。ってか自分で気づけ」
「何よその言い方。アンタはいつもそういうところに優しさがないのよ! ……いたた」
「わかったわかった。わかったからとりあえずシャワーでも浴びてこい。頭痛いんだろ?」
 呆れたような声。もう、全部がムカツク!

 +

「ったく、なんなのよアイツは!」
 言いながら、あたしは熱いシャワーを浴びる。寝不足とアルコールでだれている身体を、叩き起こす。
 しばらく何もせず、ぼーっと湯を浴び続ける。多量の水滴が床に叩き付けられる音を聞きながら、降り注ぐ湯に身を任せる。こうしてると、身体からアルコールが抜けていくような気がする。

 ……別に、カズが悪い訳じゃないんだ、よね。

 シャワーのお湯は、アルコールと一緒に怒りも流してくれたようだった。ちょっと冷静な気持ちで、今朝のやりとりを思い出す。
 なんにせよ、送ってくれたのも泊めてくれたのも事実だし、カズの言ったことが本当なら、迷惑かけてるのはむしろあたしのほう。
 なのにあたしは、勝手に怒って。
 イヤな女だな、あたし……。
 自己嫌悪。
 いいや、シャワーを浴びて楽になったら、一言お礼を言おう。
 そしてついでに、ゴメンって言おう。
「頑張れアタシ!」
 あたしは小さく、つぶやくように自分に言い聞かせた。

 +

 お風呂場から出ると、バスタオルと一緒に畳まれたTシャツが置いてあった。
 そしてその上に一枚の紙切れ。
『一度も使ってないから』
「別に、そこまで気にしないわよ」
 乱暴な字で書かれたメモを見ながら、あたしは苦笑する。
 身体を拭いた後、置いてあるTシャツを着てみた。
「……さすが男物」
 ワイシャツ姿の時も思ったけど、やっぱり服のサイズが違う。寝間着にこれ一枚でも良さそう。
 ……さすがに今はしないけど。

 居間に戻ると、いい匂いがした。
「やっと出たのかよ」
 素っ気ない声。でも手にしているのはフライパン。
「お、女の子は時間がかかるのよ!」
「はいはい。すぐ出来るから座ってろ」
「あ、うん……」
 あたしの言葉を軽く流され、なんか気が削がれる。
 それはちょっとムカツクんだけど、それよりも気になること。
 へえ、あいつ料理も出来るんだ。
 意外。
 あたしはテーブルの前に座る。テーブルにはトーストとバター、そして何も乗ってないお皿。
「よし」
 カズはフライパンを持って台所から出てきた。
「ほい」
 彼は器用にハムエッグをお皿に移す。
「食える?」
「……多分ね」
 と言った途端、お腹がきゅうって鳴った。
「……ふむ」
「……何よ」
 自分の顔が赤くなるのがわかる。
「いや、それなら食べられそうだな、と思ってさ」
 言って、カズは微笑む。

 その笑顔を見た瞬間、心臓が一回、ドクンと大きく鳴った。
 同時に、胸が締め付けられるような感覚。
 早鐘を鳴らすように、心臓が騒がしくなる。

「……どうした?」
「え? ……な、なんでも無いわよ!」
「ならいいけど、早く食わないと冷めるぞ」
「わかってるわよっ」
 あたしは頭痛に顔をしかめつつ、トーストにバターを塗る。焼きたてのトーストにバターの欠片を載せると、溶けたバターの香りが部屋に広がる。
 一口くわえると、香ばしい香りとバターの香りがブレンドされ、口の中においしさが広がった。
「……おいしい」
「そうか」
 何気ないあたしの言葉に、カズは素っ気なく返す。でもお腹が空いてることもあって、気にならない。
「おっと」
 カズは何かを思い出したように立ち上がると、戸棚を開けてごそごそと何かを探す。
「あった」
 そう言ってカズは奥から何か取り出すと、トンとテーブルの上に置いた。
「食ったら飲んどけ?」
 置いたのは二日酔いの薬。
「だ、大丈夫よこのくらい」
「いいから、飲んどけ」
 カズの言葉とあたしを見る目に、静かな圧力を感じる。
「わ、わかったわよ」
「うん」
 納得したようにカズは頷くと、食事を再開した。
 しばらく続く、無言の時間。
 お互い食べてるんだから当たり前なんだけど、なんとなく落ち着かない。
「ね、ねえ……カズ」
「ん? なに?」
「あの……ええと……」
 話しかけたはいいが、後が続かない。
「その……」
「……なんだよ」
 カズは不機嫌そうな顔をする。
 何か、
 何か言わなきゃ。
「いつも、こうなの?」
「は?」
「誰が来ても、こうなの?」
「あの、質問の意味が」
「他の女の子にも、こうやって優しくするの?」
 って、何言ってんだあたし。
 カズは困った顔をする。
 バカだ、あたし。
 なんでカズにこんな、告白みたいなことしてんだろ。
 これじゃ『あたし以外に優しくしないで』って言ってるようなものじゃない。
「……あのな」
 カズが口を開いた。
「他も何も、こんなことするのお前が初めてなんだから、比較のしようがないだろ」
「……はじ……めて?」
「お前な、寄った挙げ句に人の家入り込んできて、あまつさえベッドを占拠して寝てしまうようなヤツが、そうそう何人もいるわけねえだろ?」
「あ……うー」
 それは、そうかも。
「……でも……もし他の女の子がこうやって来たら、やっぱり優しくするんでしょ?」
「それはわからん」
 きっぱりと、カズは言った。
「そもそも、俺達って仲間だろ。迷惑かけたり、助けたりするのが当たり前なんだよ」
 あー……。
 そっか。
 あたしはカズの『仲間』なんだ。
 なんか嬉しいような残念なような、複雑な感情が頭を駆けめぐる。
「……で、なんでそんなこと聞くんだ?」
 とぼけた顔で聞くカズ。あー、ホントにわかってないんだ。この鈍感は。
「別にっ、ちょっと聞きたくなっただけよっ」
「……そっか」
 あたしの言葉に納得したのか、再びトーストを食べ始めるカズ。
 そんなたわい無い仕草なのに、妙に気になる。

 ああ、そうなんだ。
 恋は、始まってしまったんだ。
 もうこの想いは、動き出してしまったんだ。

「どうした。調子悪いのか?」
 不意に訪ねられ、心臓が跳ね上がった。
「え? あ、大丈夫大丈夫」
 あたしは慌てて、トーストを手に取る。
 ホント、鈍感なんだかそうじゃないんだか。

 あたしはこの苦しい幸せをかみしめるように、そっとトーストを口にした。



 おわり